中国の現地募集ツアー

 2006年、中国四川省の九寨溝・黄龍とゴンガ山を尋ねる旅に出かけた。貧乏旅行なので日本の旅行社が募集するツアーではなく、飛行機は中国民航の格安航空券で、中国内は現地で募集している中国人相手のバスツアーを利用した。成都のホテルも中国の旅行社に直接メールして安いホテルを取ってもらった。

 成都に着いてホテルに荷物を置き、銀行の端末で金を下ろしてから、前もって調べておいた旅行社に九寨溝・黄龍のバスツアーの申込みに行った。窓口には少し日本語の話せる女性がいたが、当方の中国語程度なので、中国語と日本語をチャンポンに使いながら旅行の申し込みと契約書の作成を行った。

 契約書は立派なもので、本文の条項のほか、旅行条件が事細かに書かれている。旅行費用に含まれる範囲、ホテルのクラス、食事の内容などなど。毎回の食事の料理数とスープの数まで書かれているのには驚いた。3泊4日の旅行費用は交通費と三ツ星クラスのホテル代、食事代を含めて740元(11,000円)だから安いものだ。

  それよりも驚いたのは、中国の旅行社が募集する旅行は全て負責人(請負人)が取り仕切っており、旅行社は名義を貸しているだけらしい。負責人と話をつければ、2つのツアーを半分ずつ乗り継いで利用することも可能なようだ。

 このツアーは○○さんが仕切っているのでここに電話してくださいとのことなので、電話したら泊まっているホテルを聞かれ、「明日7時に迎えの車を回す」とのこと。電話は筆談できないので一番骨が折れる。電話を切ったあと、どっと疲れが出た。ゴンガ山のバスツアーも申し込まなければならないのだが、もし予定が狂うといけないので、九寨溝から成都に帰ってきたときに改めて申し込むことにした。

 夜遅くインターネット屋に行こうとしたら、ホテルのフロントで「こんなに遅くては危険だからやめろ」と制止されたが、無視してホテル近くのインターネット屋(中国では電脳屋)に行った。日本語表示のPCを使っていたら、「日本人か、中日戦争をどう思う」と、若者数人に囲まれた。しまった、こんな時間に来るのではなかったと一瞬後悔したが、後の祭り。そういう難しい話が出来るほど中国語は達者ではないので、シドロモドロに答えていたら、これではラチがあかないと思ったのか、若者達もあまり深追いせずに引き上げていったのでホッとした。

 翌日、観光バスに乗り込み、適当に空いている席に座っていたら、隣に人の良さそうなおじいさんが座ったのでほっとした。まず初対面の挨拶と、日本人であることを紹介した。おじいさんはウイグルから来たとのこと。でも名前から見ると漢族らしい。歳は 74 歳(1932 年生)。

 道は都江堰を経ていよいよ山岳地帯に入る。かなりきわどい断崖絶壁の上を通過してゆく(写真01)。谷底には1935年頃の地震で崩れた土砂で堰き止められたという湖が2つほど見られた(写真02)。

         写真01:断崖絶壁が続く道路

          写真02:地震でできた堰止め湖

 沿道の休憩所には観光用の白いヤクが炎天下に並んでいた。おとなしそうな毛の長いヤクで、この上に人が乗って記念写真を撮ることができる(写真03)。

            写真03 観光用のヤク

 夕方、松藩という城門のある街に着いた(写真04)。門の外に「漢藏和親」と書かれた碑が建っていた。漢とは唐のことであり、藏とはチベットのことであるので、当時はこの辺が中国とチベットの国境地帯だったのであろう。文面には、西暦641年に文成公主がチベット王のもとに嫁入りして両国の和親を誓ったと記されていた。もっともこの碑は最近建てられたものらしく、字は簡体字であった。

            写真04 松藩城門

 

 夜は川主寺というところのホテルに泊まった。丸テーブルに10人ほど座って中華料理を食べる(写真05)。周りの人が親切に料理を取ってくれるが、みな自分の箸を使って料理を取ってくれるのには驚いた。食べ残したものは遠慮なくテーブルの上にあけてしまう。だから食べ進むうちにテーブルの上はゴミだらけになる。これが中国の流儀なのだろう。食べ終わると服務員がテーブルに敷いたビニールのテーブルかけごと、それらのゴミ を包んで持っていく。

          写真05:ツアー仲間と夕食

 その後有料のオプションだが地元チベット族少女の歌と踊りを見に行った。歓迎宴の形式を踏んでいたのでパオの入口でチベット族のレイをかけてくれた。上海からの若者とウイグルからのお爺さんと肩を組んで写真を撮ってもらった(写真06)。

       写真06:仲間と記念撮影(右がお爺さん)

 若者は上海の外資系の会社に勤めているとのこと。若者とは日本に帰ってきてからも数回メールのやりとりをしたが、中文で送ったメールは返事が来なかったが、英文で送ったメールには返事が来た。メアドは会社のものだったので、中文メールは拒否するように設定されていたのかも知れない。

 翌日はいよいよ九寨溝に向かう。九寨溝の入口(写真07)は人と車であふれていた。中国人にとっても一番の人気スポットだというからしょうがあるまい。環境保護のため九寨溝内はマイカー乗り入れ禁止で、エコカー(電気自動車のバス)が頻繁に走っている。

            写真07 九寨溝入口

 おじいさんがパンダ海(海とは湖のこと)というところで「ここで降りよう」というので降りた。道端に建つ案内板は、中国語・英語・日本語・朝鮮語・チベット語で書かれていた。歩道は全て板敷で、直接地面を歩いて自然を破壊しないように配慮している。おじいさんは植物に詳しいらしく、次々と現れる植物を説明してくれるが当方は全く興味がない。でも「これがパンダが食べる笹だ」というのだけは記憶に残った。

        写真08:幅 400m の滝(九寨溝)

      写真09:青く澄んだ湖と埋もれ木(九寨溝)

 ある混み合った展望台でおじいさんとはぐれ、あとは自分ひとりで廻った。日本では考えられない幅が400mもある滝(写真08)や青く澄んだ湖底に沈む埋もれ木(写真09)などを見て廻った。夕方、指定された集合時刻にバスのところに行ったら、おじいさんが心配そうな顔で真っ先に駆けつけて「大丈夫だったか」と聞いてくれた。「大丈夫、心配することもなかった」と答えておいた。

 夜は九寨溝の入り口近くのホテルに泊まった。夕食後、オプションのショーを見に行った。ガイドが、タクシーで会場まで移動するので「帰りも迎えに来る」という。「帰りは自分ひとりで帰るから迎えに来なくていい」と言ったら、「少数民族がいて危険だから迎えに来る」という。「何で少数民族がいると危険なのか」と聞いたら答がなかった。
 この後、別のバスツアーに乗った時も、ガイドが同じ理由で一人歩きを断ってきた。外国人に対しては、中国では、みなこういう理由にしているのだろう。あまりにも子供だまし的で説得力がない。

 翌日は黄龍を見る日だ。昨日まで当方とおじいさんが座っていた席に見慣れない顔の乗客が座ってしまった。席は指定席ではないので文句は言えない。さりげなく「昨日はどこに居た?」と聞いてみたら、「四姑娘山を見てきた」というので、違うバスツアーから移ってきたことがわかった。彼らが乗っても定員オーバーにならないのだから、このツアーからも何人か抜けたのだろう。結局、おじいさんと分かれて別々の席に座った。

 川主寺で土産物の宝石店に寄った。まず最初に会議室のようなところに入れられ、15分ほど、店の案内員が本物の宝石の見分け方をレクチャーする。そして最後に一言、「日本人は真贋も確かめないで適当に買ってゆくが、みなさんは今教えた方法で、よく見定めて買いなさいよ」と言ったので、満場大笑い。「日本人がそこに居るよ」と全員が私の方を指差した。中国人向けの現地募集ツアーなので日本人が混ざっているとは思わなかったのだろう。

 日本人なら「しまった」と頭をかくところだが、かの案内人は「しまった」というような素振りはおくびにも出さず、平気の平左で客を店内に案内していった。中国人の図太さに驚いた。尖閣諸島で海上保安庁の船に体当たりしてきた中国船の船長もこういう図太さがあるのだろう。

 土産物屋の見学が終わり休憩になったので、「高原牛乳」と書かれたものを注文したら、ヨーグルトに砂糖がたっぷりかかったものが出てきた(写真10)。面白いのは、その上に箸が垂直に立ててあることだった。日本なら箸を横に置くところを中国では食べ物の上に垂直に立ててくるのが常識らしい。

   写真10 高原牛乳(箸を垂直に立ててくるところが面白い)

 成昆鉄道の普雄で鉄路招待所に泊まった時、当直員と一緒に夕食を食べたが、お互いに写真を撮るため一時箸をおく必要ができたとき、当直員がご飯の上に箸を立てて手を空け、シャッターを押してくれたことを思い出した。

 箸は中国から入ってきた文化だろうに、日本では箸を垂直に立てるのは葬式の時の作法となっている。どこでこのように変化したのだろう。漢字でも中国と日本では意味が変わってきているものもある。

 

 13時30分ごろ黄龍入口に着いた。ガイドが16時30分までにバスに集合というので見学時間は3時間しかとれない。ガイドブックによると、最奥のお寺までゆくと、距離 8km で標高差300mとのことなので、おじいさんと一緒に歩いていては間に合わない。「ここは一人で廻る」とおじいさんに言って、観光客を右に左に追い抜きながら上山道をしゃにむに登る。

写真11 見物人を左右に追い越しながら上山道をガツガツ登る(チベット族の見物客も多い)

 下山道への分岐点に達したら入口まで4kmと出ていた。なんだ、ガイドブックに出ていた「最奥までの距離 8km」とは往復の距離だったのか。これなら普通に歩いても大丈夫だった。おじいさんに申し訳ないことをした。帰りは黄龍の名所をゆっくり見ながら下った。写真12は黄龍の名のもとになった、幅100m・長さ3500mの黄色の大石灰華だ。この黄色の石灰華を対面の山の上から見ると、まるで黄色い巨大な龍が山を下っているように見えるところから黄龍という名が付いたと言われている。

      写真12:長さ 3500m の大石灰華(黄龍)

       写真13:何段にも重なるプール(黄龍)

             写真14 蓮台飛瀑

 写真13は青い水をたたえたリムストーンプールが幾段にも重なっているところである。写真14は巨大な石灰華の段差部分にできた滝である。

 入口に戻ったら、おじいさんが「あの日本人大丈夫かな」という顔をして、入口のゲートの脇に立っていた。ここに30分も前から立っていたとのこと。たどたどしい中国語しか話せない日本人のことを本当に心配してくれていたのだ。

 それからのバスツアーは過酷だった。松藩に戻った時は既に18時30分で、雲行きも怪しくなり大粒の雨も降り出した。あたりは真っ暗。ここらでホテルに入りたいところだが、バスは脇目もふらずに断崖絶壁の道をかなりのスピードで飛ばして下る。谷に飛び込まなければ良いがと本気で心配したくらいだ。前後を見ると観光バスが連なっている。どのバスツアーも同じような行程らしい。

 ようやく22時頃、汶川という街につき、ホテルのレストランに直行し、夕食を慌ただしく食べてから各自の部屋に入った。正直言って、当方でもしんどかった。なんでこんな無理な行程を組むのだろう。

 翌日は朝食が6時で、あたふたと食事をかき込み、立て続けに3軒の土産物屋に寄ってゆく。そうか、昨日あんなに無理して突っ走ったのは、今朝、土産物屋に寄る時間を作りだすためだったのだ。土産物屋からのリベートでツアー費用を安くしている中国の現地募集ツアーのからくりがわかった。

 こちらは土産物には興味がないので、店の外で街の写真を撮る。鈴蘭型の街灯が並んだ町並みの中に汶川県文化体育局と書いた大きな建物があった(写真15)。ここが2年後の四川大震災で壊滅的な破壊を受けるとは思わなかった。この写真を見ると今でも涙が出る。

       写真15 倒壊前の汶川の建物 

 土産物屋廻りが終わるとバスも真面目に走り出した。汶川で何人か降りたらしく、座席が並んで空いたので、おじいさんと並んで座った。あとは成都に帰るだけだ。おじいさんが「ティエンファン」と言い始めた。ティエンファンは天皇という意味なので、日中戦争時代のややこしい話を始めるのかと身構えてしまったが、何回か聞き直しているうちに「スンズ」という言葉が聞こえた。「スンズ」とは孫という意味なので、「日本の天皇に孫が生まれた」ということを教えてくれているのだと分かった。中国のテレビでも、昨夜のニュースで愛子様誕生のニュースを流していたとのこと。「そうですか、それは知らなかった有難う」と言って、感謝の意を表した。

 そろそろ成都が近づいた頃、旅行途中で撮った写真をおじいさんに送るので住所を書いて欲しいと言って紙を差し出したら、いつまでたっても字を書き出す気配はなく、さかんにいろいろな名刺を取り出している。そのうち、「住所はこの漢字とこの漢字をつなげて、その次はこの名刺のこの字だ」と説明を始めたので一瞬驚いたが、この歳だと解放前に育った世代なので字を習ってないのだろうと想像がついた。おじいさんの言うとおり漢字をつないでゆくと、新疆維吾爾自治区伊利県なにがしの劉○○ということになる。その通り書き出して「これでよいか」と聞いたら、「そうだ」と返事が返ってきた。

 おじいさんに写真を送る手紙の書き出しに「劉老大爺(劉おじいさん)」と書いておいたら、お礼にウイグル特産の干し蒲萄をドッサリ送ってきてくれた。その返信手紙の書き出しは「小堀兄弟」となっていた。なかなかユーモアのある爺様だ。字は誰かに代筆してもらったのだろう。

 中国旅行中、行きずりの赤の他人からは中日戦争の議論を度々吹っかけられたが、バスツアーの仲間からは一度もそういうことはなかった。「仲間である間は互いに助け合う」というのが中国人の仁義なのかもしれない。ヨーロッパを旅した時に中国人の経営する中華料理屋に入ると、大抵の場合、その国への中国人留学生を店員として使っている。これもその仁義の現れなのかもしれない。

 

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