1966年の冬の八ヶ岳(S41年)

 大学4年の1月(1966年1月)、八ヶ岳に登った。もう遥か昔の話なので、ネガからCD化しておいた写真数枚しか残っていない。それを見ながら記憶をたどって、2017年に書いた山行記録である。コースを地図で示す(地図1)。青が第2日のコースで、赤が第3日のコースである。

  地図1 コース(第2日:青、第3日目:赤)

第1日目(晴れのち曇り)
 茅野から一番バスで美濃戸へ。乗客は数人だった。朝日をバックにして、阿弥陀岳・権現岳(雲に隠れている)・編笠岳の稜線がきれいに見えた(写真02)。

    写真02 左から阿弥陀岳、権現岳、編笠山

 行者小屋へは南沢経由の方が近いのだが、冬はほとんど人が歩かないので、ラッセルの心配があるとガイドブックにでていた。ラッセルの心配がない北沢を経由して、赤岳鉱泉→中山峠→行者小屋についた。赤岳鉱泉は背後に横岳の大岩壁が聳え、なかなか迫力があった。行者小屋に着く頃には一面の雲に覆われ、雪もちらついてきた。

 行者小屋は食事なしで素泊まりだけ。それでも火が燃えている暖かい空間で寝られるだけで天国だ。このころようやく、日清食品からチキンラーメンという即席めんが発売された時代なので、それを夕食代わりにする。お湯は小屋のストーブの上で湧いている。
 食事が済むともうやることがない。泊り客も少ないので手足を伸ばして寝袋で横になった。

第2日目(曇り)
 今日の行程は、行者小屋→阿弥陀のコル→阿弥陀岳→阿弥陀のコル→赤岳→赤岳のコル→行者小屋である。天気は曇り。赤岳と阿弥陀岳の間の沢をラッセルしながら登る。雪が深いのでかなりのアルバイトだ。現在の25000地形図で見ると登山道はこの沢を外れている。二汗も三汗もかいてやっと赤岳と阿弥陀岳のコルにたどり着いた。このころには稜線は完全に雲にまかれて展望は何もない。

 それでも阿弥陀への稜線を登る。かなり急な尾根を阿弥陀の頂上に達したが、何も見えない。寒さも厳しい。早々に阿弥陀の頂上から赤岳に向かう。一旦コルまで下り、赤岳への急峻な登りに取り付く。赤岳頂上小屋はもぬけの殻のように吹き曝しだった(写真04)。

        写真04 赤岳山頂小屋

 赤岳頂上も雲にまかれて展望なし。風が強くないのがせめてもの慰め。すぐに、赤岳から横岳に向かい、横岳との鞍部から行者小屋に下る。くたくたになって行者小屋にたどり着いた。

第3日目(晴れ)
 今日はいい天気だ。その分寒い。昨日下ってきた道を横岳と赤岳の鞍部目指して登る。鞍部に達したら阿弥陀岳の眺めが素晴らしい(写真06)。赤岳も朝日を浴びて青空に聳えている(写真08)。

        写真06 快晴の阿弥陀岳

    写真08 快晴の赤岳

 横岳に向かう稜線を進むと、行くにしたがって尾根が痩せてきて、小同心・大同心の上を通過するあたりはかなり厳しい岩場になった。なんとかそこをパスして硫黄岳に向かう。硫黄岳との鞍部までかなり下ってまた登る。硫黄岳の北側は大きな火口の縁で垂直な崖になっていた。ここで登山者と行き会ったので記念の写真を撮ってもらった(写真10)。背景に蓼科山も写っている。

  写真10 硫黄岳の火口の縁

 硫黄岳から赤岩の頭を経由して赤岳鉱泉に下る。樹林帯に入ったら青空を背景にして樹氷がきれいだった(写真12)。赤岳鉱泉の前を通り、中山峠を越えて行者小屋に戻った。今日は充実した一日だった。明日は下るだけなので、食料をすべて使い尽くして、腹いっぱい食べた。

         写真12 青空と樹氷

第4日目(晴れ)
 今日はたっぷり時間があるので、ラッセルの危険がある南沢を下ることにした。一応踏み跡はついていた。最初はごく平凡な道で雪も深くなかったが、谷が深くなるあたりからラッセルになった。踏み跡もはっきりしなくなったので、沢から離れないように進む。膝ぐらいまでのラッセルから、腿までのラッセルになった。こうなると体全体で雪の上を泳ぐようにしないと進めない。

 えらい苦労をして、北沢の3倍以上の時間をかけて、どうやら美濃戸のバス停にたどり着いた。体全体がびしょ濡れだ。美濃戸の山小屋で着替えてからバスに乗った。冬山では無理は禁物という教訓を得た。

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