マチュピチュ紀行

 2008年、長年の念願だったペルーのマチュピチュへ行くべく1月頃から準備を始めた。最初はクスコにある西河トラベルという日本人が経営する旅行社と、マチュピチュへの3泊4日のトレッキングを含めてチチカカ湖・アレキパを回るコースを打ち合わせていたが、4月上旬に旅行社から「7月から8月中旬までのマチュピチュトレッキングはもう予約で満員なので9月頃に予定を変更できないか」と緊急メールが入った。もう航空券も買った後なのでそれは無理。こんな大事な情報をキャッチミスする旅行社は信用ならんと、断然その会社を断り、あとは自分でインターネットを頼りに手配することにした。

 トレッキングは全く別地域のアルパマヨに行くことにして、地元の山岳ガイド会社にアレンジを依頼した。4800mの高山鉄道は自分でHPから切符を手配した。マチュピチュの旅行手配はリマにある日系二世の当山ペンションに頼んだ。日本語が通じるからだ。西河トラベルでは旅程にバスを入れてはいけない(バスは遅れるから)など制約が多かったが、リマの当山ペンションではそんな条件をつけずに、当方の希望どおりに手配してくれた。

リマ→クスコ

 リマ空港 9:40 発のクスコ行きに搭乗した。1時間ほどでクスコに着いた。空港のゲートの外に出たが出迎えの現地ガイドが見当たらない。ペンションの名前を書いた紙を持って立っているとのことだったのだが。さすがクスコだけあって、出迎えガイドの数が多いので見落としたかも知れない。

  当山ペンションに携帯から電話を入れたら、「当方ですぐ連絡をとるので、今いる場所を動かないで待っていてくれ」とのこと。タバコを吸いながら待っていたら直に陽気なペルー人がやってきて、日本語で話しかけてきた。 英語のガイドとばかり思っていたのでこれは助かった。しかし、付き合っているうちに、だんだんと、ずうずうしいガイドだということが分かってきた。日本語ができるガイドは少ないのだろう。

 ガイドは運転手付きの送迎車で来ていたので、「10ドル払うから、ホテルに行く前にサクサイワマンに寄ってくれ」と頼んだらOKになった。クスコを囲む北側の山の上に登ると、頂上の平地部分に石垣が連なったサクサイワマンがあった(写真2702)。サクサイワマンより眼下に見下ろすクスコ市内(写真2704)の眺めの方が圧巻だった。屋根の瓦はスペイン風の橙色のコロニアル瓦で統一され、その中央の広場がアルマス広場とのこと。山には地元の学校名とナンバーが書いてある。これから一人でゆく五段スイッチバックも見えた。

    写真2702 クスコ囲む山の上にある「サクサイワマン」

  写真2704 クスコ市内の眺め(中央の広場がアルマス広場)

写真2706 クスコのホテルの入り口(外を囲む壁に門があり、鉄格子がはまっている)

  ホテルはサントドミンゴ教会の前にある、「レジデンシャル・デル・スル」だ。インカ時代の石垣が半分残った白壁に囲まれたホテルで趣がある。入り口の鉄格子(写真2706)についているボタンを押すと中から人が出てきて鍵を開けてくれる方式になっている。警戒が厳重なのに驚いた。

 ガイドが「今日の午後はクスコ市内を見物せず一人で歩くとのことだが、どこを見るのか」と聞いてきた。通常の観光客なら、半日のクスコ市内見物のガイドを頼んでくるのに、というところなのだろう。「スイッチバックを全部歩くつもりだ」と言ったら、理解に苦しむというような顔をしていた。そうだろう、クスコに来てカテドラルや12角形の石を見な いで、線路だけ歩くという観光客はまず居まい。

 大切なものはホテルに残し、パスポートのコピーと磁石・高度計・カメラだけをもって、13:45ごろ、スイッチバック見物に出かけた。ホテルの周辺はインカの石組みが残る、落ち着いた雰囲気の町だ(写真2712)。

     写真 2712 インカの石組みが残るホテル周辺

 広い通りに出たら、独立記念日が近いせいか、楽隊もついたカーニバルの行列と行き会った(写真2714)。でも人数が少ないので、練習の行列のようだ。

      写真2714 独立記念のカーニバルの練習

 (スイッチバックのルポは鉄道編の「クスコの五段スイッチバック」を参照)スイッチバックを歩いてからホテルに戻ったのは18:15ぐらいになっていた。今日の夕食は民族ショー付きディナーなので、それまでにシャワーを浴びてさっぱりした。民族ショーで聞き覚えのある旋律(コンドル)が聞こえてきたが、日本で聞くコンドルとは大違い。非常にゆっくりしたリズムで、しかも、日本で聞くメロディーの一部分しか入っていない。ひょっとするとこれが正調「コンドルは飛んでゆく」なのかも 知れない。

 

クスコ→マチュピチュ

  朝5:00きっかりにガイドが迎えに来た。タクシーでサンペドロ駅に向かう。列車の切符とマチュピチュの入場券をもらって汽車に乗った。駅の入口ではパスポートチェックもあった。マチュピチュへ行く鉄道はペルーレールといい、オリエント急行が資本参加しているだけあって、列車の色も、乗務員の服装も凝ったものだった。

  スイッチバックを登るに従って外もだいぶ明るくなり、クスコの町並みが良く見えるようになった。乗客がさかんにシャッターを切っていた。そのうち食事が始まった。かなり豪華な食事を四人分テーブルに並べるので、テーブルはあふれんばかり(写真 2807)。 同じボックスの相客はメキシコから来た家族連れ。たどたどしい英語で話がはずむ。

          写真2807 車内の朝食

 車両は沿線の高くそびえる山々が見えるよう、天井にも窓がついている。いつの間にか天井の窓から雪のついた山が見えるようになっていた。9:50 ごろ、終点のアグアスカリエンテスに着いた。駅前の土産物屋が密集した細い通路を下ってバス乗り場に向かった。バスはひっきりなしに出ているので待たされることはない。20人乗りぐらいのマイクロバスだ。

  アグアスカリエンテスは見上げるような岩山に囲まれた渓谷沿いの町。バスはその渓谷を少し下ってから、マチュピチュへの急斜面を、イロハ坂を繰り返しながら登ってゆく。この道路は、マチュピチュを発見した学者の名前をとって、「ハイラビンガム道路」と名付けられている。徐々に高度を稼ぎ、10:30マチュピチュの入口に着いた(写真2820)。

     写真2820 マチュピチュ入口のバス停

 マチュピチュのガイドは、各国からの個人観光客20人ほどをまとめて英語で案内する乗り合いガイドだ。個人旅行の場合はこういう形態にならざるを得ない。みんなが集まったところで、ガイドが全員の点呼をとっていた。今日と明日はペルー独立記念日の祝日なので普段より客が多いからはぐれないよう気をつけてくれ、マチュピチュ遺跡の中は飲食禁止・トイレ禁止なの で、トイレによってから入口に再度集合とのこと。最後にガイドが「国名と名前を言って自己紹介してくださいと」という。アメリカ、ドイツ、フランス、ブラジル、チリなどから来ていた。日本人も当方を含めて4人ほどいた。

 

 いよいよ入口でチケットとパスポートのチェックを受けて入場。持ち物検査(ザックに飲食物が含まれていないか)もあるのかと思っていたが、それはなかった。始めはアンデネス(石垣)に沿って水平に進む。ウルバンバ川の谷が足元に深く切れ込んでいる。何箇所かで説明を受けたあたりで記念写真を撮る。西洋からの観光客には美人が多い。

  水路があったので水温を測ろうと、水路の向こう側に足をかけたら、遺跡の係員から「セニョール」と声をかけられ、それはダメと身振りで注意された。足を元に戻して水温を測りなおし。14℃だった。気温は25℃。そんなことで時間が取られたのでガイドを見失ってしまった。あとは自分一人で適当に歩いて見物した。

 遺跡には特に興味はないので、さっと覗いただけで、先にワイナピチュへの入口を見に行った。小さな門があり、そこに係員がいて、パスポートチェックと人数制限をしていた。今なら登れると言われたが、ワイナピチュは明日登る予定なので、今日はマチュピチュ内を回ることにした。たまたまワイナピチュから降りてきたという日本人のおばあさんに会った。歳を聞いてみたら 63歳とのこと。ご立派。

 マチュピチの裏側に回ると谷底まですごい急な斜面になっていた(写真2830)。俯角を測ったら36度。マチュピチュの地形の急峻さが分かる。

      写真2830 マチュピチュの裏側の傾斜

 時間が余っているのでインカブリッジにも行ってみることにした。この裏の川もウルバンバ川の下流だ。その川に落ちる長い導水管があり発電所の建物も見える。この水はアグアスカリエンテスの上流で取水し、マチュピチュの真下を貫く導水管を通ってきているものだ。

写真2837 マチュピチュの下を通る導水管

 その発電所付近に鉄道の留置線があるらしく、アグアスカリエンテス方向から走ってきた列車が、その付近の着発線で停まっていた。インカブリッジには13:10頃に着いた。ここで観光道は行き止まり。インカブリッジが少し先の垂直な壁に張り付くように作られていた(写真2838)。

        写真2838 インカブリッジ

  橋が取り外せるようになっていたので、このルー トは防御用 or 脱出用だろう。垂直な絶壁に幅わずか1mほどの道がついているだけだ。これでは危険すぎるので、インカといえども、この道は日常は使っていなかったものと思われる。

 バスでアグアスカリエンテスに下ってから、明日のマチュピチュの入場券を買いに行った。ペルー内はどこでもドルが通用するのだが、切符売り場はソルしか使えなかった。政府観光局の窓口なので、国の威信にかけてもドルを使わせないのだろう。

  小生のホテル「プレジデンテ」に着いたら、鉄道線路が走る通りに面したホテルだった(写真2845)。当方の部屋は鉄道線路に面した二階の屋根裏部屋。ここならアグアスカリエンテスより奥に入る列車があるかどうか観察できる。内心、拍手喝さい。

 写真2845 町の中を走る鉄道線路に面したホテル

 17:00ごろ、まだ明るいので温泉に行った。みやげ物屋やレストランが立ち並ぶ坂を登ってアグアスカリエンテス温泉に着いた。入湯料は10ソル。プ ールは全部で4つぐらいあった(写真 2847)。

    写真2847 アグアスカリエンテスの温泉

 どれも小さなプールで5m 四方ぐらいしかない。 スイミング禁止、スイミング専用などと立て札がついていた。そのほか、「うたせ湯」もあったが、これはシャワーのつもりで設置してあるのだろう。一番大きなスイミング専用プールに入ってみたら、底は砂だった。ということは、温泉が湧き出している上にプールを作ったのか。お湯はぬるく、乳白色に濁っているが硫黄泉の臭いはしない。もしかしたら垢で白く濁っているのか。早速、秘湯に入る会の赤い手ぬぐいを広げて記念写真を撮る。まわりの地元民 or 観光客から、「私もやらせてくれ」と声がかかる。この手ぬぐいが縁で片言の会話がはずむ(写真2849)。

     写真2849 日本の手ぬぐいが地元民に人気

  ホテルの部屋で荷物の整理をしていたら、22:30 頃、ポワーンと汽笛の音がして列車が入ってきた。線路際の部屋でよかった。早速カメラを取り出して、窓を開けて撮影。回送列車かと思っていたら実入りだった。二階の窓なので車内も見える。乗っている客はほとんど地元民だった(写真 2853)。

  写真2853 時刻表に載っていない生活列車

  インターネットの時刻表は観光客用のもので、そのほか地元民用の生活列車も走っていることが分かった。列車を降りた乗客は三々五々街中に散って行った。列車は、荷物を下ろすと22:45頃、汽笛を残して奥の方向に消えていった。 しばらくしたら、また汽笛が聞こえる。窓を開けて様子を伺っていたら、今度は、奥の方から機関車だけが戻ってきた。客車編成をどこかの留置線においてきたのだろう。

 

ワイナピチュ~オリャンタイタンポ

 6:15頃のマチュピチュ行のバスに乗って、入口には6:45頃着いた。早速ワイナピチュの入口に向かう。入口には30人ほど並んでいた。受付で番号をもらったら143番で、入場は10:00とのこと。

 そうか、人数制限のため時間制で入れているのか。それなら始発バスできて並べばよかった。仕方ないので10:00までマチュピチュ内を見物することにした。見張り小屋まで登り、マチュピチュの定番写真を撮った(写真 2902)。快晴で昨日よりずっとクリアな眺めだ。マチュピチュは朝来て見るものだということが分かった。

  写真2902 マチュピチュ遺跡とワイナピチュ(後方の岩峰)

 9:00ごろにはワイナピチュの入口に並んだ。入口の看板によると、月の神殿を往復すると3時間、ワイナピチュ往復だけなら2時間のようだ。月の神殿は一方通行で回るように書いてあった。行きはワイナピチュの頂上から月の神殿に下り、帰りはワイナピチュの西側の道を通って戻ってくるように指定されていた。

  いよいよ 10:00 になり、入口で手続き。パスポートチェック、整理番号のチェック、氏名の記入などかなり厳重だった。始めは少し下り、それから 先は階段状の急な登りが続く(写真2914)。本来は足元から絶壁が落ち込んでいるはずだが、谷側は常に樹木が生えているので足元が見えず、黒部の下の廊下のような怖さはない。インカのルート工作の巧さに感心した。

    写真2914 ワイナピチュへの登りは階段の連続

 要所々々に手すり代わりのロープも固定されている。頂上直下に大きめの遺跡があり、次に現れたのは、岩をくりぬいて掘ったトンネル(写真2929)。

    写真2929 頂上直下にある岩をくりぬいたトンネル

 いよいよ頂上についた。頂上から見下ろしたマチュピチュは航空写真を見ているようだった(写真2928)。

   写真2928 ワイナピチュ頂上から見下ろしたマチュピチュ

 ワイナピチュから眺めると、マチュピチュ山の尾根の一角を切り開いてマチュピチュが作られていることが良く分かる。その後ろには太陽の門の遺跡があるインティプンク 2800mが聳えている。 マチュピチュ2430mに対してワイナピチュは2640mなので200mぐらいの登りに過ぎない。それで「もう頂上なの」と感じたのだろう。ちなみに、マチュピチュとは老いた峰、ワイナピチュとは若い峰という意味だそうだ。地形から見るとその感じがぴったりする。

 ワイナピチュの頂上は大岩が3つほど並立していて、どれが本当の頂上か分からない。それぞれのピークには先客の西洋人が陣取っていて、なかなか退いてくれない。一つのピークしか回れなかった。足場も悪いのでマチュピチュを背景に自分の写真を撮るのは難しい。人に頼んで写真を撮ってもらった。頂上の岩には大きなトカゲもいた。

 ワイナピチュの麓を流れる川は東も西もウルバンバ川で、ここはもうアマゾン川の上流である。この川はワイナピチュを抱き込むようにヘアピンカーブしている。ワイナピチュは写真でもおなじみの鋭く尖った岩峰なので、両側の谷は目もくらむように急峻で深さも深い。

 頂上からの眺めに後ろ髪をひかれながら、月の神殿に向かった。東側の大絶壁の上を通っているはずだが、縁まで出ないので平凡な道だ。しばらくそんな道を下ると、垂直な崖につけられた道となり、10mほどの木のハシゴを下る(写真2932)。

          写真2932 垂直な梯子

 それから先は林間の平凡な道を延々と下る。これでは川まで下りてしまうのではないかと心配になるほど下ったころ、ようやく月の神殿に着いた。 月の神殿は、大きな自然石がかぶった岩小屋のようなところを神殿にしているものだった(写真2934)。人工的に岩を削った部分はわずかだった。

        写真2934  月の神殿

  月の神殿まで来る人はまれだろうと思っていたのだが、見物人が途切れることはなかった。内部も見学したがどうということはない。結論から言えば、月の神殿は、3時間も掛けてわざわざ見に来るほどのところではない。

 11:50 ごろ、マチュピチュに戻る道をぐいぐい登る。この道は林に囲まれていて眺めは良くない。いいかげんイヤになる頃、西側のウルバンバ川の展望が開けた。ウルバンバ川に臨む絶壁には手すりが取り付けられていた。(写真2941)。

    写真2941 ワイナピチュ西側の絶壁

 13:30ワイナピチュの入口に戻り、パスポートを提示して外に出た。ワイナピチュは危険なので、入った人と、出た人を正確に把握するためだそうだ。遅くても16:00までには出なければならないとのこと。マチピチュに放されているリャマと戯れながら水平な通路を出口に急いだ(写真2945)。

      写真2945 マチュピチュの出口に続く通路

 バスでアグアスカリエンテスに下り、ホテルで荷物を受け取ってから駅に行った。通路の壁に日本の漫画を使って公衆道徳を啓蒙する絵が画いてあったのには驚いた(写真2947)。

    写真2947 マナー教育の絵は日本のキャラクター

 駅前の土産物屋の一角にアンモナイトの化石が置いてあった。それを手にとってじっと見ていたら、アイヌのような髭を生やしたおじいさんが戻ってき て、35ドルという。思わず「高い」と言ったら、「いくらなら買うか」と聞いてきた。20ドルと言ったら、それでOKとのこと。こういう土産物屋の値段って、あって無いようなものだなと思った。

 16:50発の列車でオリャンタイタンポまで。列車では、ペルーレール名物の余興とファッションショーが始まった。まず、白いマスクをつけた神様の踊りがあり(写真2951)、車掌・パーサー総出でファ ッションショーを始めた。このファッションを即売するためだ。

      写真2951 ペルーレール恒例の神様の舞

 オリャンタイタンポには18:10頃ついた。もう真っ暗。今日のホテルは当山ペンションに手配してもらったホテルなので場所はわからない。駅からかなり離れているようだ。たまたま警官が立っていたのでホテル名を示して聞いてみた。その警官も知らないような2ツ星ホテルだった。警官も近くの人に聞いて、「この道を真っ直ぐ行って、市場のある辺りだ」と教えてくれた。 もうかなり暗くなった中を、真っ直ぐ伸びた砂利道を進む。道路沿いにホテルがあったのでフロントによって聞いたら、「この道を行って、T字路にぶつかったら左へ行くとこのホテルがある。ちょうどあの山のあるあたりだ」と細かく教えてくれた。そのとおりに行ったら、最後は暗い広場についた。そこから路地裏に入ったところにホテルがあった。

  荷物を置いてから、来る途中に見かけたレストランに食事に出かけた。レストランは空いていた。二階の窓側の席に陣取った。なかなかしゃれた作りのレストランだった。 ウエイターに、中央アンデス鉄道(FCCA)で乗り合わせた女の子が書いてくれたメニューを見せて、「この中でできるものはあるか」と聞いてみた。

 スープは「これはできる」というのが一つあったが、メインディッシュは「残念ながらない」とのこと。しかたないので適当に頼んだら、アルパカのステーキが出てきた。味はいいが固くて食いきれなかった。ビールはまたクスケーニャを頼んだ。このビールはうまい。ウエイターも話し好きで小生のテーブルに座り込んで、いろいろ話していった(写真2956)。スペイン語と英語が混ざっているので話が通じないことが多い。その都度、近くの家族連れのご主人に通訳をたのむハメとなった。


         写真2956 話好きなウエイター

 

オリャンタイタンポとマラス

  6:00頃ガイドが、自分の会社の社長が運転するマイカーで来た。社長の子供も一緒だったのには驚いた。まるで家族のピクニックのようだ。ガイドが、「この子は11歳だが、英語も習っているので英語で話してくれと」子供を紹介してきた。まずオリャンタイタンポの旧市街を見に行った。その広場にはインカ皇帝の銅像が建っていた(写真3002)。右手に大きな太い棍棒を持ち、左手には盾を持った像だった。

         写真3002 インカ皇帝の銅像

  その周りが旧市街。その石畳を歩いてインカ小路を見学する。クスコより古そうな作りの民家が、狭い小路の両側に並んでいた。なんとなく情緒がある。その小路の真ん中を水が流れている(写真3003)。

    写真3003 インカの民家通り(中央に水路がある)

  民家を囲む石塀の上には花が植えられ、民家の入口には美容院などの看板がかかっている家もある。 今でも実際に使われている民家なのだ。

 広場に戻ったら、ガイドが「あれが伝統的なインカの衣装だ」と、おばさんを指差した。すぐに横道に曲がってしまったので、車からカメラを突き出して急いで写真を撮った。赤いセーター、大きく膨らんだスカート、背中に大きな風呂敷まではこれまで見てきた衣装と同じだったが、かぶっている帽子が上に開くような形をしているところが違うのだそうだ(写真3004)。

      写真 3004 伝統的なインカの民族衣装

 7:00ごろ、再びオリャンタイタンポ遺跡の前に戻った。切符売り場の職員はまだ出勤していなかったが、ガイドが当直に、「料金は出るとき払うから」と交渉して扉を開けてもらった。おかげで込み合う前に遺跡を見学することができた。

 オリャンタイタンポの遺跡を一回りして、出口で入場料を払い、次のマラスの塩田に向かう。ウルバンバの町でウルバンバ川を渡り、右手の高い台地に登ってゆく。この辺の標高は3400~3500mぐらいあるはずだ。道路脇にマラスの塩田の入場料を入れる箱があった。5ソルを払って先に進む。道が大きく左カーブして下ってゆくと、突然山肌の一部が白くなったマラスの塩田が見えてくる(写真3030)。なかなか壮観だ。

       写真3030 マラスの塩田全景

 9:15塩田の入口に車を置いて下ってゆくと目の前に塩田が広がっていた。1枚1枚は小さいが、何千枚という塩田がある水の流れているくぼ地に下ると、塩分を含んだ温泉の湧き出し口があった(写真3038)。手を入れてみたらかなり暖かい。アグアスカリエンテスの温泉より熱い。その塩水を毛細管のように枝分かれした水路で各塩田に引いている。

       写真3038 塩の温泉の湧きだし口

  塩田の一枚一枚は6畳ぐらいの広さしかない。塩水を入れてから2週間から3週間で塩が採れるとのこと。そのときは家族総出で採取するらしい。目の前にも家族総出でやっている姿があった。ここは観光コースから外れているので来る人は少ないが、この壮観は絶対に見る必要がある。

 10:00ごろ塩田を後にしてモライに向かう。山を登り返し、モライの遺跡には10:30ごろついた。ここもルートから外れているので観光客は少ない。車を降りて遺跡を見下ろせる縁まで行ったら、その大きさに驚いた(写真3045) 。100m×200mぐらいあるだろう。入場料10ソルを払い遺跡に降りてゆく。

         写真3045 モライの遺跡

 ここはインカの農業試験場だったところと解釈されている。アンデネス(石垣)が幾段にも重なり、その中に水路も築かれている。アンデネスを降りる階段は石垣から突き出た石だ。突き出た石の間隔もかなりあるので、よそ見をしながらでは階段を降りられない。しっかり足元を見て降りて行く必要がある(写真 3046)。

       写真3046 アンデネスの階段

 あとはクスコに直行し、リマに戻った。リマではセンデロルミノソに襲われた日本大使館を見に行ったが、警戒のため、日本国旗は掲げていなかった。

 

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